宗教にのめりこむ感覚について

昨今は、カルト宗教の問題が報道で取り上げられる機会が増えました。日本維新の会でも、被害者救済に向けて動いております。

カルトにはまっていない人からすると、何故、あんなものにハマる人がいるのかと首をかしげたくなるのですが、ここでカルトの恐ろしさを解き明かしてみましょう。これはカルト宗教だけでなく、マルチ商法や悪徳サロンビジネスでも似たようなものだと思っていただければと思います。

カルト宗教の最たる恐ろしさは、それはずばり「コミュニティ」そのものにあります。

ここで、少し私の昔話をします。私も大学入学式の前日に、大学正門近くで勧誘されて、うっかり数週間、マンションの一室で行われている不審な会合に通っていたことがあります。最初はゼミだと言っており、数日間は宗教の話はまったくしないディベートサークルみたいな雰囲気でした。200円ぐらいで晩飯も出してくれましたし、アットホームで居心地が良いところでした。3週間ぐらいして、ようやく某宗教の用語が多くなりました。念のためにネットでその用語を調べた結果、ビンゴ。これはやばいと逃げ出した訳です。ただ、皆さん、本性を現す前のいい人モードだったわけで、そこから離れるにはある程度、心を鬼にしなければなりませんでしたね。また、私は3つぐらい入りたいサークルがあったので、そこを辞めてもボッチになることはありませんでした。

カルト宗教の教団側からすると、一人で歩いている若者や上京したての学生は格好のターゲットだったのでしょう。別にこれは、物理的に一人という意味に限定されません。例えば、重い病に侵されて、現代科学ではどうにもならないという場合も、一種の孤独といえます。また、自分のいるコミュニティで自分の存在意義を疑っているとき(いじめ、家庭不和、なんとなくうだつが上がらない)なども、ねらい目です。

周囲に頼れる人がいない状況でなんとなく 、いい人に囲まれると居心地がよくなります。そこに通いつめたくなります。何かを選ぶということは何かを諦めること。特定のコミュニティに通い詰めるということは、そのコミュニティ以外の人との交流の機会が減るということです。つまり、特定のコミュニティが、自分の世界の大半を占めるということなのです。

安倍元総理を撃った犯人は、自身の母親がカルト宗教・旧統一教会に入れ込んでいました。そして、その母親は、息子でもなく安倍元総理でもなく、ましてや世間の皆様にでもなく、ほかならぬ教団の関係者に頭を下げました。彼女にとっては、旧統一教会こそが、主たるコミュニティであり、世界の大半だったのかもしれません。コミュニティにどっぷり漬かってしまいますと、そのコミュニティに迷惑をかけたと思うのはごくごく自然なことだといえます。彼女の理屈からすれば、これまで何もしてくれない世間に頭を下げるという発想は、頭の片隅にすら無かったのではないでしょうか?

コミュニティに所属すると、役割が与えられたり、自然発生したりします。人は案外、そういう状況を自ら望むのです。例えば、職場に行って、一週間予定が何もないと気まずいと思いませんか?また、いつもの仲間内コミュニティでも、おちゃらけ役とか、いじられ役とか、兄貴分とか多分何らかの役割が無意識的に割り振られており、そこに当てはまらない人は脱落していっていませんか?


カルトでもマルチでも、お客様モードが終わると、役割が割り当てられます。それはノルマからもしれないし、修行かもしれません。ただ、それを達成すると仲間内から、「承認される」のです。承認されることはとても気持ちが良いことであるため、自分のタスクを全うするモチベーションや責任感に繋がります。

特定の宗教では、特定種の動物の肉を食べるのを禁じたり、行動制限があったりします。外部の人からすれば、何故好き好んで、そんな面倒な戒律のある団体に所属するのか意味不明です。しかし、その戒律こそが、その団体の所属であることを自覚する最大の機会であるともいえます。


例えば、飲酒を禁じている宗教の信者がいたとしましょう。飲酒可能な別の宗教の人と、晩御飯を一緒にする機会があった場合、自分だけ飲酒できない状態となります。「ほかの人は楽しそうに飲んでいるのに、自分は信仰の為に我慢だ」と耐えるわけです。この耐える行為こそ、もっとも自身の宗教を骨身に感じる瞬間といえましょう。

また、それはそれで辛い体験なので、だんだん、他宗教の人と食事をするのが嫌になります。酒を飲まない人と、つまり、同じ宗教の人と一緒に食事をする方が気楽になるのです。つまり、宗教コミュニティの結束力が増します。

人は周りをどんな人で囲まれているかで、良くも悪くも思想がゆがみます。これは宗教に限らず、金銭感覚でも、一般常識でも同様です。「コロナは陰謀だ」と言っている人に囲まれると、なんとなく、それが正しく聞こえてくるというか、当たり前の価値観だとすら思ってしまうことでしょう。そういった意味では特定の組織に囲い込まれない、しがらみのないというのは大事なことです。

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