- 2024-1-3
- 雑記
新年あけましておめ・・・と言えない雰囲気となってしまいましたが、まずは2024年も何卒宜しくお願い致します。
そして、令和6年能登半島地震の被害に遭われた皆様、また、羽田空港の航空機事故関係者の皆様に、心からお見舞い申し上げます。東京維新の会としても、身を切る改革で捻出したお金を被災地に寄付することを決定しております。少しでも被災地にお役立てできればと思います。
※身を切る改革については、議員として行政改革を進める覚悟を示したものです。これをもって行政の財源にする目的ではございません。理想としては、議員の歳費カットなのですが、条例が成立しなければカットできず、また自主的に返済という手段も取れないため、歳費の一部を一時的にストックして、後ほどまとめて被災地などへの寄付に回しております。
さて、直接的に被災地と関係のない地方議会議員が、直接的に被災地に対して何ができるかと問われれば、実際のところ、議員ではない方、つまり一般の方とできることに大きな違いはございません。私の立場でできることとしては、状況の検証後、自分の地域であるべき防災対策について議会で訴えることぐらいでしょう。
逆に一般の方の立場にたったとき、直接的に被災地で何ができるのかというのは、フェーズや災害特性、地域特性によって求められるものは変わってきます。例えば、フェーズの話。私は東日本大震災のボランティアに足かけ5年行きました。最初の数か月は泥かきやがれき撤去などしましたが、半年もすれば一般の方が手で持ち上げられるような瓦礫はほぼありません。また、ある程度のフェーズを経ると、短期間滞在のボランティアにつきまして特殊スキルをお持ちではない限り、あまりニーズがない場合もあり、逆に中長期滞在のボランティアがコーディネーター的な立場で活躍するようになります。
さて、上記をお読みいただいたうえで、それでも何かをしなければならないと焦燥感にかられる人もいらっしゃると思います。今すぐ現地に行って何かしたいと思う方もいらっしゃるかもしれません。私はその情熱に敢えて水を差したいと思います。被災地ボランティアに行っても、案外やりがいを感じないのです。今回は理由を書いていきたいと思います。
【1】公的機関だからこその特徴
そもそも、災害ボランティアのニーズはどうやって見つけるのでしょう。基本的には各地の「社会福祉協議会」が設置する「ボランティアセンター(通称ボラセン)」というところで見つけることとなります。この公的機関にて、地域の需要とボランティアをマッチングさせているのです。
公的機関ということもあり、ボランティアには過度なリスクを背負わせるには行きません。ボランティアが怪我をした、ボランティアが怪我をさせたり器物をこわしたりした、ということを極力避けます。つまるところ、一般ボランティアに対しては、リスクと隣り合わせのエキサイティングな案件は、回すことがまずなく、無難な案件が中心になります。
とはいえ、これは当たり前の考え方とも言えるでしょう。助ける側が、助けられる側になるということは、余計な仕事を増やすということに他なりません。二次災害への対処というタスク増加はもちろんのこと、公的機関だとこれにクレーム対処・仕組みの抜本的な改革というタスクまで増加してしまいます。貴方の自滅が、「様々な視点を持つ人達からのありがたいご意見」や「組織内部の再発防止しなきゃという自浄作用」によって、様々な規制へと繋がり、そのために何百人の人が翻弄され、未来でできるようになることが大幅に減ることとなっても良い訳がありません。
【2】災害ボランティアはロースキルの人間ができることは少ない
災害ボランティアは、フェーズによって需要は変わってきます。医療資格や福祉関係スキルをお持ちの方は、フェーズに関わらず求められるかもしれません。また、フェーズ初期では、建築系・土木系スキルを持つ人達は重宝されることも多いでしょう。例えば、2019年の千葉県の風害に関して、屋根にブルーシートを張ってほしいという需要が多く、危険を伴う高所作業のため、建築系スキルをお持ちの方は重宝がられます。
では、特にスキルのない人はどうでしょうか?軽作業が割り当てられることがあります。具体的にいえば、非危険箇所でのがれき撤去、掃除、救援物資の仕分け、駐車場誘導、ボランティアをサポートするためのボランティア、ルーティンな事務処理あたりです。基本的にボラセンで斡旋するボランティアは需要ベースのため、軽作業の需要そのものが少ないこともあります。一見さんの一般ボランティアのやる作業は、あくまでもボランティアでありノルマはなく(というより来るのか来ないのか分からない人達の作業をノルマ化できない)、作業内容によっては拍子抜けするほど手ごたえがないと感じる人もいるかもしれません。
【3】自然の偉大さと個人の無力さに直面する
本当にひどい災害というのは、正直な話、個人の力ではどうにも対処しようがないことも多々あります。家が倒壊したとして、個人でその周辺のがれきを集めたとしても、倒壊した建物本体をどうにかできる訳ではありません。重機とかでガガガと一気に片づけてもらう他はないのです。一個人の数時間程度の作業など、大自然に比べると本当にちっぽけで無力なものだと実感します。この無力感も、災害ボランティアをやっていて、やりがいを感じない理由のひとつです。
被災して根本的な欲求は、インフラの復旧早くして、安心して住める場所が欲しい、保険金や公的支援金が早く欲しい、仕事が欲しい、といった感じですが、法人や現地の行政レベルじゃないと太刀打ちできません。本当に個人というのは無力なものであり、みんなで動く必要があります。
【4】地域の問題は、地元民にはかなわない
貴方は中間管理職とかチームリーダーとかを経験したことがあるでしょうか?なったことがある人なら、理解できる感覚だとは思いますが、本当に欲しいのは単純労働者よりも、ブレインとなって自動的に的確に情報を処理し判断を下せアウトプットできる人が欲しいです。一見さんの一般ボランティアに自動的に情報処理し判断を下しアウトプットしてもらうのは、機密情報の管理や権限・責任の問題、慣れの問題からハードルが高いです。ただ、一部の情報処理なら多少はできることもあるでしょう。
災害直後のボラセン事務所内は猫の手も借りたいほど忙しく、事務仕事を手伝ってもらえるだけでもありがたい場合もあります。例えば、電話受け。しかしながら、電話してきた相手の住所を確認をする際、地名を知らないと聞き取れないということは多々あるでしょう。2019年千葉台風のケースでは、市外のボランティアを受け入れなかったところが多いようですが、そういった地元民なら当たり前のように分かるけども、市外の人には分からないことに対応するという意味もあるのかもしれません。また、地域復興の大事な鍵は、地元民の自発的・継続的な努力です。外部の一見さんのボランティアに頼り過ぎても、安定しないのです。
以上、災害ボランティアは、やる側のやりがいを満たさない理由を書いてみました。そもそも論として、ボランティアは困っている人を助けるための事柄であり、させて頂くものです。貴方の何かやらなきゃという欲求を解消するためのものではありません。それでも、なにかやらなきゃという衝動と、絶対にあの人たちの笑顔を取り戻すという意地みたいなものがなければ、務まらないのもまた事実なのです。
ただ、二転三転して申し訳ないのですが、だからといって被災地を忘れないでください、きちんと関心を持ってください。ボランティアの受け入れ態勢が整ったら、志のある方は、是非、被災地の人たちの心に寄り添ってあげてください。自分の目で見て、聞いて、考えて、戻ってきたらそれを周囲の人に伝えてください。また、自分の意外なスキルや意外な持ち物が、案外役に立つ場合もあります。そして、受け入れ態勢が整う前までは、デマ情報を拡散しないことに努めつつ、寄付など、できることをしましょう。